現存する国内マラソンとして最古の歴史を誇る、第76回びわ湖毎日マラソンが2月28日、皇子山陸上競技場を発着点とし、新瀬田川浄水場を折り返す42,195㎞のコースで行われる。ビキラ・アベベ、君原健二、フランク・ショーター、宗兄弟、瀬古利彦、ポール・テルガト、ウィルソン・キプサングら名だたるランナーが駆け抜けた本大会も、大阪マラソンとの統合により、夕照の道や紫式部ゆかりの国宝・石山寺、古戦場として知られる瀬田の唐橋、瀬田川洗堰など名所、旧跡をたどる琵琶湖畔を舞台とするのは今年が最後となる見込み。
新型コロナウィルス感染拡大防止の対策の為、海外の有力ランナーの招待はないが、3月第1週に行われる予定だった東京マラソンが10月に延期されたため、国内有力ランナーが数多くエントリー。招待選手のうち、MGCを制覇し東京五輪代表となった中村匠吾(富士通)が左足首の故障のため残念ながら欠場となり、レースの焦点は2011年にウィルソン・キプサング(ケニア)がマークした2時間6分13秒の大会記録、2001年に油谷繁(当時中国電力)がマークした2時間7分52秒の大会日本人最高記録を破り、歴史有る大会の掉尾を飾る選手が現れるかに絞られた感が有る。
招待選手の中で1番の実績を誇るのは井上大仁(三菱重工)。「先頭集団で勝負をすれば必ず記録は付いてくる」をモットーに、序盤から突っ込んで入る事も厭わないケレン味の無い走りに特徴がある。 代表に選ばれて出場した2017年のロンドン世界陸上では日本人最下位の26位と世界の壁に跳ね返され、悔し涙に暮れながらも「いつか、4分台、5分台で世界と互角に渡り合える力を付け、この舞台に戻って来る」と誓いを新たにし、以降は世界トップクラスを意識したレース振りに拍車がかかった。 自己ベストは2018年の東京マラソンでマークした2時間6分54秒。この時は2002年に高岡寿成が記録した当時の日本記録、2時間6分16秒を上回るペースで疾走し、残り5㎞を15分16秒で走れば日本新、というところまで迫ったがその後にペースダウン。後続の設楽悠太(Honda)に抜かれ、記録更新も同時に攫われてしまい、レース後のインタビューで「こんなに悔しい事はない、ただただ屈辱」と答えた強気な一面も持ち合わせている。 同年のジャカルタアジア大会では、後にマラソンアジア記録保持者となったエル・アバシとのラストスパート勝負を制し、アジアチャンピオンとしてとして臨んだ東京五輪マラソン代表選考会、MGCでは大迫傑(nike)、設楽悠太、服部勇馬(トヨタ自動車)らと共にBIG4と並び称されたが、まさかの最下位。 五輪最終切符を賭けたファイナルチャレンジの2020年東京マラソンでも、大迫の保持していたMGC期間中の最速記録2時間5分50秒(2018年シカゴマラソン)の更新を目指して果敢に挑んだが、35㎞以降で大きくスローダウン、代表の座を逃している。 再起を期しての1年振りのマラソンとなる今大会の目標に「自己記録の更新」を掲げているのは強気な井上にしては控えめで、仕上がり具合が気になるが、レースになれば常に世界との勝負を意識するその姿勢を走りで示してくれる事だろう。 大会記録の更新へは、35㎞以降の落ち込みを克服できるかが鍵となる。
井上の好敵手となる選手の一番手が、サイモン・カリウキ(ケニア、戸上電機製作所)。日本薬科大学時代から箱根駅伝予選会で鳴らし、そのスピードには定評が有る。 これまでのマラソンレースでは、そのスピードを遺憾なく発揮して30㎞までは先頭争いを演じるもののそこから失速というパターンを繰り返しているが、少しずつベストタイムを向上させている。 昨年の東京では優勝したビルハヌ・レゲセらと共に2時間4分を切ろうかというハイペースの集団にに25㎞まで追走、遅れてからも何とか35㎞までは1㎞3分を切るペースで粘っていたが、残り5㎞辺りから動きが極端に悪くなり、最終的にはジョグのようなペースにまで落ちて何とかゴール。それでも前半に作った大きな貯金を活かして2時間7分56秒をマークしている潜在能力は侮れず、シュラ・キタタ・トラ(エチオピア、2016年のびわ湖に出場、ペースメーカーさえ置き去りにするハイペースで独走するも失速。その後はロンドンマラソンを制するまでに成長)のような選手になる可能性を秘めている。
今大会のペースメーカーは、福岡で第二グループのペースメーカを務めたジェームス・ルンガル(ケニア、中央発條)、村山謙太(旭化成)と、昨年の福岡でペーサーを担ったビダン・カロキ(ケニア、トヨタ自動車)ほどの安定感は望めないが、井上を始めとする日本人選手は、30㎞までであれば安定感は折り紙付きのこのカリウキをペースメーカーに見立てて、なるべく後半に力を温存したいところだ。
参加選手中トップのベストタイム、2時間6分45秒を昨年の東京でマークした高久龍(ヤクルト)は、そのレースで一時は1㎞3分7秒まで落ち込んだペースを40㎞以降で1㎞3分まで戻したように、最後に絞り出す事が出来るタイプ。昨年暮れの福岡国際マラソンを故障で回避、今回はマラソンの間隔が開いてしまう事を嫌っての出場という面がありどこまで仕上げきれているかは井上同様気懸りな点だが、状態が上がっていれば優勝争いも充分可能だ。
昨年の東京で高久同様の好走を見せ、2時間7分台をマークした小椋裕介(ヤクルト)、下田裕太(GMOインターネットグループ)、菊地賢人(コニカミノルタ)の三人は、今大会でも再びその水準の記録を出して、パリ五輪へ向けての存在感を高める事が出来るか。この三人で最も年長の30歳、菊池は事前の練習がしっかりと積めており、好調と伝えられている。
招待以外の一般参加選手にも、8分台、9分台の自己ベストを持つ実力者が目白押し。 とりわけMGCで5位に食い込み、東京五輪マラソン代表候補(これまでの大会で言う補欠選手)となっている、橋本崚(GMOインターネットグループ)の走りに注目したい。 青山学院大時代は箱根駅伝を走る事が出来なかったが、卒業目前の2016年、リオ五輪選考会として開催された東京マラソンでは、初マラソンながら五輪代表を巡る駆け引きでペースの上がらない日本人先頭集団を後輩の下田と共に一時は引っ張る存在感を示し、2度目のマラソンとなった翌年の防府読売では、レース中盤で一気にペースアップして引き離しにかかった川内優輝(当時埼玉県庁、現あいおいニッセイ同和損保)を徐々に追い上げ31㎞過ぎで逆転、その後は独走でマラソン初優勝を飾った。 2019年の別府大分で2時間9分29秒の自己ベストをマークして日本人2位となり、MGC出場権を獲得すると、そのMGCでは目の醒めるるような快走を見せる。レース序盤では独走で大きく先行した設楽を追いかけ始めた、大迫ら4人の追走グループには反応せずに自重したが、20㎞過ぎから追い上げを開始、25㎞過ぎで同じく東京五輪候補選手となった大塚祥平(九電工)と共に追走グループに追いつき、この集団がスローダウンした設楽を37㎞付近で捉えた後、勝負を意識し互いに牽制し合うなか、39㎞手前から先頭を伺い揺さぶりをかけて集団のふるい落としに成功、優勝した中村、服部、大迫と橋本の4人に絞られたところで思い切ってスパート。このスパートは中村に発射台として使われ、被せられて失敗に終わり、最後は力尽きて5位となったが、舞台は五輪選考会、格上を相手にも勝機と見れば思い切った仕掛け切る度胸と勝負勘の良さは、今後の伸び代を充分に感じさせるものだった。 2時間5分台、6分台を目指す高速レースの経験はないが、35㎞までを凌ぐことができれば勝機が出てくる筈だ。
勝負度胸では鈴木健吾(富士通)も引けを取らない。7位に入賞したMGCでは他の選手に先駆けて15㎞過ぎから独走する設楽を追い始め、この間の5㎞を14分48秒まで一気に上げてレースを動かした。その後も追走集団のペースが落ちると前で引っ張りペースを上げるなど細かい仕掛けを繰り返し、この動きに対応した優勝候補の大迫は少しずつ体力を削り取られて中村のラストスパートに屈し、結果的に同僚の勝利をアシストする格好となった。 昨年のびわ湖ではペースメーカーが外れた直後、優勝したエバンス・チェベトら外国人選手の一気のペースアップに果敢に対応する度胸の良さをを見せたが、ここで力を使ってしまい、残り5㎞を15分30秒で走れば8分台という好位置につけながら大きく失速して2時間10分台に終わっており、42,195㎞を通しての体力の測り方、脚力の残し方に課題が残った。 トラックシーズンでは10000mの自己ベストを27分49秒16まで上げてスピードも付いてきており、後半をしっかりまとめれば一気の飛躍があっても不思議ではない。
そのほか、若手では昨年の別府大分で、ペースメーカーの抜けた30㎞過ぎから一時は先頭を引っ張る積極性を見せて2時間9分7秒をマークした聞谷賢人(トヨタ紡織)、昨年のびわ湖で37㎞過ぎの浜大津辺りから猛烈になった湖岸からの横風の中を粘り抜き、初マラソンながら2時間9分18秒と健闘した山本翔馬(NTT西日本)、やはり昨年暮れの防府読売で最後の2,195㎞を6分16秒でカバーする驚異的なラストスパートで2時間9分36秒を叩き出した丸山竜也(八千代工業)の3人に連続サブテン、もしくはそれ以上の記録に期待が懸かり、初マラソンだった昨年のびわ湖、2走目の福岡と全く同じ2時間10分13秒のタイムで走る珍記録を作った吉岡幸輝(中央発條)もマラソン適正と潜在能力の高さを秘めている好選手だ。 昨年の日本選手権10000mで27分34秒86の好タイムをマークした河合代二(トーエネック)、2月14日の実業団ハーフで1時間01分33秒をマークして好調さが伺える大六野秀畝(旭化成)の中堅の域に差し掛かった二人や、ベテランでは先月の大阪国際女子マラソンでペースメーカーを完璧に務め、一山麻緒(ワコール)の大会新記録を後押した川内優輝、岩田勇治(三菱重工)の二人の仕上がりも良く、好記録を狙える状態にあると見ている。
本大会のコースは、湖岸の道路に入る際、極端に道幅が狭くなるために集団の中でのポジション取りが非常に重要になってくる。また、35㎞を過ぎてから、浜大津からびわこ競艇場にかけての直線は湖岸からの強風に悩まされる事が多く、平坦ながら記録が出にくい事で知られているが、好選手が多数揃った今大会では歴史の幕を閉じるに相応しい、記憶に残る名勝負が刻まれる事を望みたい。
文/芝 笑翔