トラック&フィールド代表で最もメダルに近い存在、静かな狂気を内に秘める走幅跳・橋岡優輝

試技開始の合図から、助走の最初の一歩を踏み出すまで、ロングジャンパーが見せるルーティンは実に様々だ。観衆に手拍子を要求し、跳躍のリズムを作り出す選手、独り言を呟きながら最後に奇声を発し、自らを鼓舞する選手、集中を図った後、十字を切ってからスタートする選手。おしなべて海外の選手は、大きなアクションで自らを高揚させ、外向きにも発散させながらスタートを切る選手が多いように思うが、橋岡優輝(富士通)のルーティンは、静謐とでも言いたくなるような雰囲気を纏っている。一つ二つと小さく、ゆっくり息を吐いた後、上半身を小刻みに揺らしながら、右足のつま先でトトン、トトンとリズムを取る。この右足の動きが止まるとぐぐっと上半身を反らし、ゆっくりとスタートに入る。その間、表情はまったくと言って良いほど動かない。1回目から6回目まで判で押したように繰り返される、洗練された美しさをも感じさせるこのルーティンに入ると、この選手は他の選手とはどこか違うと思わせるような、見ている者に息を飲んで見守る事を強いるような、高い緊張感を伴った独特のオーラが発せられているように感じる時がある。変わらぬ表情で見つめる視線の先には踏切板が有る。しかし橋岡はその先の、私たちには見えない何かを見つめているのではないか、そう思わせられる時がある。助走路に立つその佇まいから、橋岡に潜む内なる狂気が見えるような、そんな思いに駆られるのだ。

棒高跳の元日本記録保持者、利行を父に、元三段跳日本記録保持者の直美(旧姓城島)を母に持つ橋岡は、日本陸連のダイヤモンドアスリートに選ばれるなど早くから将来を嘱望され、また自身もU20世界選手権で8m03を跳び金メダルを獲得するなど期待に違わぬ活躍を見せ、2019年4月にカタール・ドーハで行われたアジア選手権で自らのコーチである森長正樹の保持する当時の日本記録、8m25まで3㎝に迫る8m22をマークして東京五輪参加標準記録を突破すると共に、アジアチャンピオンの座を手にするなど、着実にステップアップを重ねてきた。
ここで、そのアジア選手権の試技内容をご覧いただきたい。

1回目 7m97

2回目 7m81

3回目 8m08

4回目 ファウル

5回目 7m92

6回目 8m22

5回目で一度は逆転を許しながら、最終6回目のビッグジャンプでの再逆転で優勝を手にしたのだが、このように橋岡は1回目や2回目の、試合に入った直後の試技でも8m近い跳躍で試合を有利に運ぶ事が出来、また決勝進出のかかる3回目、最終跳躍といった重圧ののしかかる場面でも、更に記録を伸ばす事が出来る、ここ一番での勝負強さを持ち合わせている。

そんな橋岡から、筆者が他の選手とは違う、ただならぬ雰囲気を感じ始めたのは、2019年8月に行われたANG福井だった。競技開始早々の1回目の試技から8mを優に超え、自己記録を更新し、あるいは日本記録誕生かというビッグジャンプを披露し場内は大きくどよめき、大記録を待つ雰囲気に包まれた。このような会場の空気をよそに、どよめきを起こした当事者である橋岡は公式記録を待つ間、ニコリともせず首を傾げ、何度も首を横に振り続けながらピットに戻る歩を進める。記録は8m32、日本記録誕生が場内にアナウンスされると歓声が沸き上がり、流石に表情を緩めて歓声に応えはしたが、すぐに険しい表情に戻り、コーチの森長と身振り、手振りを交えながら二言、三言言葉を交わしていた。その後日本記録は1時間も経たないうちに、3回目の跳躍で城山正太郎(ゼンリン)が8m40に更新し、日本記録保持者としての橋岡は短命に終わったのだが、この1回目の跳躍後の様子を見て、この選手は日本記録よりももっとずっと遠くを見ている、決して満足できる内容ではない好記録は大きな意味を持たず、理想の跳躍を追求し続けることにアスリートとしてのアイデンティティを見出しているのではないかと、ぼんやりと思った。無論、橋岡も競技者である以上、勝つ事にもこだわりがあるだろう。しかしそれだけに留まらない、「その先の世界」を更に見ようとし続けている。この先に有るのは理想を追い続ける者だけが足を踏み入れる、決して抜け出す事の出来ない「狂気の世界」とも言える領域なのではないか。思えば、カール・ルイスも、マイク・パウエルも狂気の世界の住人だった。

今年の3月に大阪で行われた日本室内選手権で橋岡は、8人以上参加の大会であれば記録なしとなる初回試技から3回連続でのファウルを犯したが、その間にも踏切を合わせて記録を残す事よりも、助走スピードを上げ、今までに自己記録以上の大ジャンプを身体にしみ込ませる事を重視しているかのような試技を執拗に続けていた。

6月、五輪選考の懸る日本選手権で橋岡は、初回試技から立て続けに2度ファウルを侵した後の3回目で、事も無げに8m27をマークして4回目以降の跳躍に進んだ。トップ8進出の懸る追い込まれた局面でのこの記録は、ワールドクラスの実力者である事の証明だ。その後も記録を伸ばし、6回目の跳躍では8m36、ドーハ世界陸上でもリオ五輪でも銅メダルに相当する自己新記録で、優勝と五輪代表の座を手にしたが、やはり喜ぶこともなく首を傾げ、俯きながら何度も首を横に振り、インタビューでは良いと言えば良い記録だが、日本記録以上を目指していたので率直に悔しい、と語った。

国立競技場に聖火が灯り、東京五輪が開幕した。
トラック&フィールドの個人種目で、最もメダルに近い存在は誰かと問われたら、それは静かな狂気を内に秘めた走幅跳の橋岡優輝だと、迷いなく言うことが出来る。

文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)

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