遺された課題 最後の開催となった福岡国際マラソンから見えたもの

すっかり裸樹になった街路樹の落とした、黄色く色づいた葉が道路脇に吹き溜まる最後の坂を、歯を食いしばり懸命に腕を振り、選手は上っていく。疲労に纏わりつかれたかのように、その足どりはどこか重たく映る。左に進路を変えて取付道路に入り、マラソンゲートを潜る。
今年で最後の開催となる福岡国際マラソンのゴール地点、平和台陸上競技場に真っ先に姿を現したのは、スズキ所属のM・ギザエだった。トラックを1周半、ゴールに向かうピッチ走法のストライドは一歩、また一歩と狭まっているようにも見受けられた。最後の直線、十字を切り小さくガッツポーズ。僅かに両手を広げながらゴールに辿り着き再び十字を切った後、出迎えたチームスタッフの元に歩み寄ると、身体を預けるように凭れ込み、抱き止められた。フィールドに設置されたクロックは、進み続ける黄色い数字のタイム表示の下に、優勝タイムを表す赤色で2時間7分51秒と表示された。

ギザエは最後の坂を上る直前に後方を確認し、気を取り直したように前に向き直った。
その目には80m、いや、100mほど後方で、顎が上がり喘ぐように、空中を藻掻くように腕を振りながら追い縋る、赤いユニホームの選手の姿を認めていただろう。黒崎播磨の細谷恭平だ。
細谷はギザエ以上に疲労の色が濃く、坂道に入る直前、平和台の取り付け道路に入る前と、進路は左にも拘らず右側、道路中央の方へと大きく斜行した。体が思うように動かせなくなっていたのだろう。トラックに入り残り1周となったところ、残る体力の全てを注ぎ、全身全霊でギザエとの差を詰めようとするが、首を突き出し、上半身が前に傾くばかりで、脚が前へと進んでいかない。大きくバランスを崩しそうになりながら、前を行くギザエに視線を向ける。既にバックストレートからコーナーに差し掛かるギザエを執念で追い掛ける。差は更に開いていた。最後の直線、ギザエが切ったゴールテープが、再び細谷の前に用意された。後は、1秒でも速くレースを終えたい。上半身だけが前に進んで脚が全く付いてこない、そのように見える走りになりながら、ギザエから遅れること25秒でゴールテープに前のめりに倒れ込んだ。すぐに救護スタッフが駆け寄り、タオルケットが掛けられる。起き上がる事が出来なくなったのか、横になったまま数人の救護スタッフに抱えられてフィールド内に退避された。

3位のJ・ルンガル(中央発條)がゴールを迎えようとするその後方では、高久龍(ヤクルト)と大塚祥平(九電工)の熾烈な4位争いが繰り広げられていた。先行する高久に大塚がラストスパートを仕掛け、抜きに出る。気付いた高久も再び前に出ようとするが、もはや体が言う事を聞かない。ゴール目前で脚がもつれて転倒、両手をトラックに付いてようやく身体を起こして立ち上がると、膝に力が入らないのか、またがくっと頽れ、最後は転がるようにゴールラインを越えた。すぐさま、待ち受けていた救護スタッフの手で担架に乗せられた。

75回の歴史に終止符を打つ、最後の福岡国際マラソンは、30㎞まで2分58秒ペースでレースを進めた末の壮絶な消耗戦

スタート前の気温は13.9℃、ほぼ無風と昨年とほぼ変わらぬコンディションとなったが、天候は晴、雲の多かった昨年と異なり、レース中の気温上昇が予想された。レースは佐藤悠基(SGホールディングス)、S・カリウキ(戸上電機製作所)、J・ムァウラ(黒崎播磨)、C・K・ワンジク(武蔵野学院大学)の4人のペースメーカーが手厚い体制で担う1km2分58秒の設定ペースの第一集団に、優勝候補筆頭の設楽悠太(HONDA)、大六野秀畝(旭化成)ら川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)を除く全ての招待選手と一般参加のケニア人実業団選手ギザエ、ルンガル、2時間7分40秒の自己記録を今年2月のびわ湖で記録した青木優、(カネボウ)2時間8分15秒を記録した大津顕杜(トヨタ自動車九州)、東京五輪代表選考会、MGC6位の竹ノ内佳樹(NTT西日本)といった国内有力一般参加選手が付け、1㎞3分の第二PMをP・M・ワンブイ(NTT西日本)が務める集団と、第一集団の中間辺りに川内が、PMの金丸逸樹(戸上電機製作所)、2019年ドーハ世界陸上マラソン代表の二岡康平(中電工)らと小グループを形成して追走する隊列となった。

10㎞を過ぎ、第一集団に付いた招待選手の中で、9㎞辺りから苦しい走りとなっていた寺田夏生(JR東日本)が脱落。
目を疑うような事態が起こったのはその後だ。15㎞手前、それまではいつものように歩道側でPMの直後に位置していた設楽の位置取りが、後方の車道側に変わった。意図して位置取りを変えたようには映らなかった。表情はいつもと変わらないが、両肩がぶれ、首が左右に振れる、明らかな変調だった。
16㎞を過ぎて集団から遅れだし、別府大橋のアップダウンを上手く使いながら19㎞手前で再び集団後方に取りついたが、先頭が20㎞地点を通過したあと、その後方で両手を腰に当て、まるで練習を切り上げるように、走る事を止めた。
驚いたように駆け寄る大会スタッフに両手の人差指をクロスさせた小さな×印の合図を送るとタオルを肩に掛けられ、設楽のラスト福岡は終わった。
コースを去る設楽の表情は捉えられず、その胸に、何が去来していたかを窺い知る事は出来なかった。

設楽の姿が見えなくなったことで、設楽でも付く事が出来ないペースなのか、という心理が選手たちに生まれ、少なからず走りに影響を及ぼしていたのかもしれない。
昨年の福岡で2分58秒ペースの経験がある、MGC6位の実力者竹ノ内、そしてカネボウの青木、東洋大で設楽と共に箱根を沸かせた大津、川内のプロ転向後、最強の市民ランナーとの呼び声が高い京セラ鹿児島所属の研究者、中村高広が中間点までに次々と集団から零れて行った。

このペースに乗って行くのか、自重するか、逡巡を見せたように映る選手もいた。
東洋大時代の設楽、大津の1つ後輩の高久は、設楽がリタイアをする前に何度か後方に視線を送って位置取りを確認し、一度は後ろにいた大津の傍らまでポジションを落とし、二言三言と言葉を交わした。このペースのまま進んで脚が持つのか、このまま第一集団でレースを続けるのかの確認だったのかもしれない。
高久は今年の2月、鈴木健吾(富士通)が2時間4分56秒の日本記録をマークしたびわ湖毎日マラソンのレース中、今回と同様の1㎞2分58秒設定でレースが進む中25㎞を過ぎた辺りで井上大仁(三菱重工長崎)が飛び出しを見せた際、共にレースに出場していたヤクルトの同僚の小椋祐介(ヤクルト)と言葉を交わし、この際は井上の飛び出しには対応せず、追い掛けた集団にも付かず、小椋と共にペースを守ってレースを進める選択をしている。

先頭集団はPM4人とギザエ、ルンガル、P・クイラ(JR東日本)に初マラソンのN・コシンベイ(YKK)の一般参加ケニア人選手4名、高久、細谷、2020年の東京マラソンで2時間6分54秒をマークした上門大祐(大塚製薬)、同じく2020年の東京マラソンで2時間7分05秒で走った東洋大時代の設楽、大津の同期生、定方俊樹(三菱重工)、優勝候補の一人と目された大六野、東京五輪マラソン代表の補欠として五輪直前まで調整をしていた大塚の国内招待5選手に加え、この選手もまた東洋大時代の設楽の一つ後輩で、箱根1区のスペシャリストだった田口雅也(HONDA)、帝京大出身で実業団2年目の若手小森稜太(NTN)の一般参加選手2名の計16名、優勝争いはPMを除く12名に絞られた。

中間点の通過は1時間2分41秒、鈴木健吾の日本記録の中間点通過タイムから5秒劣るだけのハイペースになっている。集団に残る選手の中でこのペースの経験があるのは、大迫傑が日本記録を樹立した2020年の東京と、今年のびわ湖を走っている高久、高久と共に追走集団ながら2020年東京を走った上門、定方、びわ湖で第一集団でレースを運んだ大六野の4人。昨年の福岡に出場していた大塚、2月のびわ湖で3位の細谷は共に3分ペースの集団からの追い上げで、ケニア人選手4人、田口、小森も併せた8名は初めて体感するフルマラソンのペースだ。

中間点を過ぎた辺りから大六野の動きががくんと鈍り集団から脱落、25㎞を過ぎて上門、コシンベイ、頑張っていた小森、田口も集団から遅れた。
そんな選手たちとは対照的に,PMのカリウキ、ワンジクは決められた設定ペースを守りながら快調に飛ばし続ける。ルンガル、ギザエ、高久らがペースを維持する事が難しくなってきたのか間隔が出来始め、クイラ、定方、大塚と続く縦長の隊列に距離が出来始めても一切の忖度なしに突き進む。
30㎞でレースを終えるPMと、更に10㎞以上が残されている選手達とではここまでの体力の使い方、残し方に違いはあるのだろうが、それでも、カリウキ、ワンジクと、高久ら集団の選手たちとの間には、この1㎞2分58秒という速いペースに対応する根本的な余裕度の違いが有るように窺えた。

30km以降 我慢比べの耐久勝負、4選手がMGCへの出場権をつかむ

30㎞を1時間29分09秒と、それまでより10秒ほスプリットを落として高久、ギザエ、ルンガルが通過すると、レースを離れるカリウキ、ワンジクが手を叩いて選手を鼓舞。高久が先頭を引っ張るが、ペースが維持できず、勢いがない。5秒ほど遅れて細谷、定方、クイラ、大塚が順に追う。
32㎞手前の香椎折り返し地点で細谷、定方が先頭集団に追い付いた時点で、ペースが元に戻らない事は明らかだった。ここからは、我慢比べの耐久勝負だ。
33㎞手前で定方がまず遅れ、ルンガルも離れ始めた。後方から定方を抜き去り、大塚が一時は先頭集団に迫る勢いを見せたが、そこから先はなかなか差が詰まらない。
最後まで脚を残していた者が勝つサバイバルレース、そう思われた35㎞手前、一端離されたルンガルが再び集団に追い付こうかというタイミングで、意を決したようにギザエが前に出た。
細谷、高久、は即座に対応出来ず、途中細谷が追い縋ったが差は縮まらず、勝負は決した。

後方では上門が、落ちて来た選手を一人ずつ拾いながら粘り抜き、何とか2時間8分56秒の6位でゴール。2時間8分16秒の細谷、2時間8分33秒の大塚、2時間8分38秒の高久に続き、この上門までの4選手がパリ五輪選考大会、МGCへの出場権を手にした。
第二集団からのレースを選択した二岡が2時間9分14秒で7位、MGCラインには15秒届かなかったが、40㎞以降の2.195㎞を6分32秒と出場選手中最速タイムでの猛烈な追い上げが光った。
第一集団で中盤まで頑張った田口が2時間9分35秒と初のサブテンを記録して8位に入り、定方は最終盤を纏めきれず2時間10分31秒で9位。
優勝候補だった大六野は後半に大きく崩れて2時間13分45秒の18位。次のマラソンは、また1からの積み直しだ。

自身12回目となる福岡国際マラソン出場だった川内は、2時間11分33秒で12位。12回目の出場を12位で締める辺りが、何とも川内らしい。
この秋ボストンマラソンに向けての練習のさなかに転倒をして打撲傷を負ってこれを回避、回復途上での出場ながら、競技場に戻ってきた川内は常と変わらず、全力のラストスパートを見せてくれた。

キロ2分58秒の壁・・・

リオ五輪の惨敗後、マラソン大国再建への取り組みに着手し、2018年に設楽が16年ぶりに日本記録を更新して以降、今年の2月に鈴木が2時間4分56秒までその記録を伸ばし、大迫の東京五輪6位入賞という成果も収め、活気付いていた日本の男子マラソン。もう一段上の結果を得るための第二段階初のレースとなった今年の福岡国際マラソンだったが、日本人選手最上位の細谷が2時間8分16秒と、やや停滞してしまったように思われる方もいるかもしれない。
確かに、1㎞3分ペースであれば6分台で纏める事ができる、細谷、高久、上門らが、2分58秒ペースになると後半に崩れてしまう、この1㎞2秒の僅かとも思える差が、世界との大きな実力の差として突き付けられた。そして世界のトップオブトップは、この差を埋めてもまだその先を進んでいる。

だが、世界との差はそれほどに大きいのかと、諦めてしまうのはまだ早いだろう。かつて、日本記録を更新する前の設楽は、初マラソンだった2017年東京マラソンで、2時間3分ペースで前を行くW・キプサングを単独走で追い掛けて跳ね返され、2回目のベルリンでも同じように最後は脚が止まってしまったが、こうした失敗を繰り返した上で3回目のマラソンとなった2018年東京では自身にとっての適正ペースを掴み、ペースの上がった30㎞以降は自重してそれまでのペースを維持しながら、無理なペースに体力を消耗した選手を次々に追い抜き、大望を掴み取る事に成功している。
まずは、何度失敗てもこの1㎞2分58秒という世界基準のペースに繰り返し挑戦する事、今回が3度目の挑戦だった高久にしても、次のマラソンでまた挑戦しそこから何かを掴み、「2分58秒ペースの壁」を乗り越えて行かなければならないのだと思う。

宇佐美彰朗、宗兄弟、瀬古利彦、中山竹通、高岡寿成ら、多数の世界的名ランナーを育んできた福岡国際マラソンは、最後に男子マラソン界がもう一段上のレベルに登り詰める為の課題を提示してその役割を終え、歴史に幕を降ろした。

文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)

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第75回福岡国際マラソン選手権大会
①M・ギザエ(スズキ)2:07:51
②細谷恭平(黒崎播磨)2:08:16※MGC出場権獲得
③J・ルンガル(中央発條)2:08:25
④大塚祥平(九電工)2:08:33 ※MGC出場権獲得
⑤高久 龍(ヤクルト)2:08:38 ※MGC出場権獲得
⑥上門大祐(大塚製薬)2:08:56 ※MGC出場権獲得
⑦二岡康平(中電工)2:09:14
⑧田口雅也(HONDA)2:09:35
⑨定方俊樹(三菱重工)2:10:31
⑩熊谷拓馬(住友電工)2:10:41
⑪小森稜太(NTN)2:11:32
⑫川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)2:11:33
⑬田中飛鳥(福岡陸協)2:11:58
⑭S・バトオチル(三重陸協)2:12:06
⑮飛松佑輔(日置市役所)2:13:24
⑯八巻雄飛(SGホールディングス)2:13:25
⑰福田 穣(NNランニングチーム)2:13:34
⑱大六野秀畝(旭化成)2:13:45
⑲大津顕杜(トヨタ自動車九州)2:13:57
⑳加藤 平(新電元工業)2:14:16

20位以下の主な選手の成績
㉒山本翔馬(NTT西日本)2:14:38
㉓畔上和弥(トヨタ自動車)2:15:47
㉖有村優樹(旭化成)2:16:23
㉙D・M・キトニー(TRACK東京)2:17:00
㉚監物稔浩(NTT西日本)2:17:04
㉜川内鮮輝(Jaybird)2:17:44
㉟中村高洋(京セラ鹿児島)2:18:24
51 寺田夏生(JR東日本)2:19:57
55 青木 優(カネボウ)2:20:16
57 竹ノ内佳樹(NTT東日本)2:20:58
72 岩田勇治(三菱重工)2:26:41
※完走80名
※DNF
設楽悠太(HONDA)、久保和馬(西鉄)P・クイラ(JR東日本)N・コシンベイ(YKK)他

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