悔し涙から6年、再び始まる丸山文裕のオリンピックロード

リオデジャネイロオリンピック男子マラソン代表の座は、目前だった。ゴールまであと3㎞を切ったところで、それまで日本人選手トップを快走していた丸山文裕のバラ色の未来は暗転した。2時間9分39秒、初マラソンながらサブテンをマークしたゴール後、記者からの問いかけに「悔しいです」と応じ、人目も憚らず号泣した。

2016年3月6日、リオデジャネイロ五輪マラソン代表最終選考会として開催されたびわ湖毎日マラソンのスタート前、丸山は脚光を集めているとはけして言えない存在だった。大分東明高校時代はエースではなく、2番手格。卒業後は大学には進学せず、旭化成に入社した所謂高卒叩き上げ。入社4年目辺りからロードで活躍を見せ始め、2013年の熊日30㎞ロードレースで、別大を大会記録で制したばかりだった当時埼玉県庁の川内優輝と激しく競り合い3秒差で敗れるも1時間29分34秒と当時日本歴代8位に当たる好記録で2位となり、全日本実業団ハーフは1時間01分15秒とこちらも当時日本歴代8位のタイムで優勝を飾る立続けの好走を見せた。ロードタイプの若手ホープと期待を集め始めた矢先、左膝を故障し長期離脱。2014年には手術に踏み切り2015年に復帰、故障前のような走りがようやく戻ってきたか、という状況で挑んだ初マラソンだった。

レースはこの後2020年のロンドンマラソンであのE・キプチョゲを破る事になる、当時はまだ19歳だったS・キタタ(エチオピア)が、PMの設楽悠太(Honda)、圓井彰彦(当時マツダ、引退)S・コスゲイ(ケニア)が先導する3分2秒ペースでは物足りないとばかりに飛び出し、ケニアのL・ロティチ、後にロンドン世陸のマラソンで銅メダルを獲得した、F・シンブ(タンザニア)、世界陸上北京大会でM・ムタイ(ウガンダ)らがPMのコスゲイと共に追走集団を形成、五輪代表の懸る日本人選手は設楽、圓井が安定したペースで引っ張る第3集団と、3つの別のレースが行われているような珍しい展開となり、25㎞で設楽が離脱後は外国人集団のPMを務めていたコスゲイが位置取りを下げて30㎞までを先導、離脱する頃には日本人集団は、優勝候補の本命、ロンドンに続く連続代表を目指す、中本健太郎(当時安川電機、現コーチ)、延岡西日本マラソン、シドニーマラソンとフルマラソン2戦2勝と勝ち方を知っている中本の同僚、北島寿典(安川電機)、2013年のびわ湖、2014年の東京と2度サブテンをマークしているベテラン、石川末廣(Honda)、丸山、丸山の同僚深津卓也(旭化成)、丸山と同じく初マラソンだった当時社会人1年目の井上大仁(MHPS長崎、現三菱重工)の5人に絞られていた。

コスゲイがレースを離れる直前にまず井上が遅れ始め、丁度30㎞を迎える辺りで中本が集団に付いて行けなくなった。この時点で勝負に出たのが丸山だった。25㎞地点で設楽が離脱して以降、牽制も有り、この間の5㎞は15分40秒にまで落ち込み、ゴール予想タイムは2時間10分を越えて来た。腕を強く降り、軽快なピッチで一気にペースを上げて、石川、北島、深津を突き放した。五輪出場へ順位とタイム、勝負だけでなく両方を掴みに行く姿勢を見せたのは初マラソンの丸山だけだった。

33㎞地点で外国人集団から零れていたムタイを捉え、35㎞の地点ではレース前半を2時間5分ペースで飛ばしに飛ばし、落ちて来たキタタも抜き去った。
この時点で後方グループと15秒差、差は開かなくなってはいたが縮まりもせず、ゴールは歩を進める度に近付いてくる。残り5㎞辺りから丸山のペースが一気に落ち始め、深津を先頭に、石川、北島と続く追走集団の姿が大きくなり始めた。
深津の表情は険しく、北島も脇腹を抑える仕草は有るが、離されてはいない。ベテラン石川は勝負はもう少し先に想定しているように、表情が変わらない。
びわこボートレース場を通過する辺りで石川がギアを上げ、深津、北島を振り切って抜け出しに掛かると、残り3㎞を過ぎたところで懸命に逃げていた丸山が捉えられた。丸山も石川の背後に付き、腕を更に強く振り、必死の抵抗を試みていたが、次第に石川の背中は遠ざかり、脇腹を抑えながら猛然と追ってきた北島にも躱された。
選考の対象となる日本人3位を巡り、同僚の深津と最後まで熾烈な争いを繰り広げたが、競技場に入る直前に前に出られると、その差を縮める事ができず、力尽きた。

悔しさを糧に東京五輪を目指します、そう言い残して引き上げて行った丸山の、その後の競技生活もまた、順風満帆では無かった。
2017年、東京五輪代表を争うMGCシリーズの初戦となった真夏の北海道マラソンで、最終盤の北海道大学の構内まで優勝争いを繰り広げながら4位に終わると、それ以降はフルマラソンで上位争いに絡む事が出来なくなった。
MGC出場権を手にする事も出来ず、東京五輪代表争いにはついに絡めずに時が過ぎた。
村山兄弟、市田兄弟、大六野秀畝ら、箱根駅伝のスター選手にその座を占められ、ニューイヤー駅伝の舞台からも遠ざかって久しい。
今回の大阪マラソンは、旭化成のマラソン選手として、ある意味剣が峰の状況で迎えていたのかもしれない。

1㎞3分ペースでレースが進む中、久々に先頭集団でレースを進める事が出来た。30㎞からの村山謙太、川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)の飛び出しに始まる、目まぐるしいく先頭の入れ替わる展開にも、大きく離されず食らい付いた。先頭が山下一貴(三菱重工)、星岳(コニカミノルタ)、浦野雄平(富士通)の3人の集団に変わっても、諦めずに腕を振り、小気味の良いピッチで前を追い続けた。ペースの落ちて来た浦野の背中がだんだん大きくなり、3秒差にまで迫ったところがゴールだった。
2時間7分55秒で4位に入り、東京五輪代表を巡っては手にする事が適わなかったMGCの出場権を、因縁のびわ湖の後継大会である大阪の地で獲得する事ができた。

気が付けば、悔し涙に暮れたあの時から6年の月日が経過していた。
丸山文裕の、一度は途絶えたオリンピックロードは、パリへと行き先を変えて再び始まった。
不屈の男のマラソン人生も、また続く。

文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)

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