2020年7月8日。北海道、深川で女子3000mの日本記録が更新された。
コロナ禍による東京五輪の延期決定、緊急事態宣言の発令。困難と混乱の時でもあったその解除後、スポーツ庁により定められた新たな指針に則って感染拡大措置を講じ、無観客で行われた初めての日本陸連の主幹大会となったホクレンディスタンスチャレンジで、陸上界に留まらず、スポーツ界が延期された東京五輪へ向けてまた歩を進め始めた事を印象付けたのは誰あろう、田中希実（当時豊田自動織機TC、現豊田自動織機）だった。
田中は翌年、東京五輪を直前に控えたホクレンDC千歳大会でも女子1500mで参加標準記録の4分04秒20を上回る4分04秒08の日本記録を樹立。標準記録を破れないままWAランキングでの五輪出場が決定していたが、本番の前に破って五輪に行ける事が素直に嬉しいと表情を綻ばせた。
その後の五輪での躍進はここに記す必要もないだろう。
そして今年の6月22日。800mのランキングに絡むポイントが得られるために、北海道の深川で行われたホクレンディスタンスチャレンジ20周年記念大会1000mに出場した田中は、自身の持つ2分37秒72を更新する2分37秒33の日本新を叩き出し、世界陸上へのラストチャンスの機会を設定した陸連強化スタッフや、多くの陸上ファンの期待に応えた。
この時点での陸連スタッフの手計算ではWAランキングでの出場ラインに届いたか、というところだったが、他国選手の結果もあってトラック＆フィールドの第一次発表では800mでの代表はならなかった。
しかしながらその後WAのエントリー調整で辞退者が現れたためにリランキングが行われ、繰り上げでの出場資格の獲得が伝えられるとともに出場意思の確認が有り、晴れて2次発表で800mでも代表となった事が明らかとなり、結果的にはこの記念大会での「もう一押し」が大きくものを言って800m、1500m、5000mの中長距離3種目での世界陸上代表の偉業を成し遂げた恰好となった。
陸上ファンにとっては「ホクレンで日本陸上界にとってエポックメイキングな事績を成し遂げる田中希実」であった事を三度印象付けたのだが、当の田中にとっては、良績を残した得意のシリーズで有ると共に、今季は各種目で自己ベストを更新できず、けして調整途上と納得する訳にはいかない、思うように記録が伸びて行かない現状を打ち破りたいという思いも有っての日本新記録の激走だったのかも知れない。
すべての種目でスタートラインに立てば世界陸上同一大会三種目出場の偉業を成し遂げる事になる田中だが、速く走る事ができる、スピード持久力が高いといった優れたフィジカル能力以上に、その能力を弛むことなく練習において磨き上げ、その成長に資してきた勤勉さも大きいと思われるが、殊に特徴も挑み方も、要求される能力も異なる800m、1500m、5000mの3種目で世界大会出場レベルまで達した事に関しては、それぞれの種目のレースでの実戦で得た感触、身体の動きがどうだったか、自身の体の中で何が起こっていたか等の自身のフィジカルを通した情報を適格に伝える事ができるフィードバックの能力と、その情報を分析し、それぞれの種目に対応できるように再構築していく能力にも長けている事が、より大きな要因だったのではないだろうか。
中長距離の三種目での世界的な活躍と言えば、東京五輪5000m、10000mの二冠に、1500mでは銅メダルを獲得したオランダのS・ハッサンがすぐに思い浮かぶが、今回の田中のケースはより距離の短い800mにおける、スピード、スプリント練習や調整目的ではない世界大会での挑戦が、1500mでも実績を残すマルチランナーでありながら5000mで15分を切る世界トップクラスの選手としては異例と言って良いものであり、世界に問う意味合いも大きく、ここに田中の今回の挑戦のすべてが集約されているのだと思う。
もう少し突っ込んで言えば、目先の目標や結果だけに囚われることなく、自身の成長のために挑戦を続ける事に意義を見出している、アスリートとしての田中のレゾンデートルの証明の場が世界陸上なのだろう。
2020年の7月、田中が踏み出した一歩でその後の国内陸上界が大きく動きだしたように、世界の陸上界に新たな動きが加速する事になるかもしれない。
コロナ禍以降、常にアスリートとしての存在意義を自らに問い、思い悩みながらも成長を続けてきた田中からは、そう思わせるだけの強い輝きが放たれている。
文／芝 笑翔 (Emito SHIBA)
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