スポーツの世界においては、それがいかなる競技であろうともただ一つの種目、一つの道でさえ究める事は容易ではなく、だからこそ野球における最高峰のリーグ、MLBで近年絶えて現れていなかった投打の二刀流に挑み、打者として本塁打を連発し、投手としては並み居る強打者から多くの三振を奪うなどハイレベルな活躍を見せる大谷翔平が野球の祖国アメリカの人々を熱狂させ、MVPを獲得するほどの高い評価を受けるのだろう。
陸上界における多種目に渡る活躍といえば、2019年のドーハ世界陸上では女子1500mと10000mの中距離、長距離種目で金メダル、昨年の東京五輪では1500mで銅メダル、5000mと10000mで金メダルを獲得したオランダのS・ハッサン。多くの選手がリスクを冒さず種目を絞って大舞台に挑むのに対して、そのリスクを承知の上で短期間で複数の種目に挑戦する姿勢を示し賞賛を浴びた。
国内では女子800m、1500m、5000mの三種目で今年のオレゴン世界陸上に挑んだ田中希実(豊田自動織機)が記憶に新しいが、男子でもこの夏、110mHで13秒44の今季日本ランキング6位、400mHでは49秒82で9位、そして400mでも45秒92で6位と異なる三種目で日本ランク上位に入る記録を叩き出し、今後の可能性に期待を抱かせる選手が現れた。
慶應義塾大学の2年生、豊田兼だ。

豊田は東京の桐朋高校出身、コロナ禍でインターハイが中止となった2020年、代替大会として広島で行われた全国競技会で110mH4位、400mH5位の成績を残しているが、陸上強豪校に所属している訳でも、取り立てて存在感が際立つていた訳でもなく、今後の成長が期待される選手の一人という印象だった。
大学初年度は日本インカレの400mHで準決勝敗退と学生陸上界の壁に跳ね返されたが、今期は5月の東京選手権で平凡なタイムながら110mHと400mHの二種目を制し勢いに乗った。
続く関東インカレの400mHでは前半からハイペースで果敢に突っ込み、最終コーナーを抜けるまでは東京五輪代表の黒川和樹(法政大)とほぼ互角にレースを進め、直線では脚が止まって5着に終わったものの49秒台が目前に迫る50秒13をマーク、49秒22で優勝した黒川以下4着までが50秒台を切る大激戦を演出したのは紛れもなく豊田だった。
110mHでは学生第一人者の村竹ラシッド(順天堂大)が欠場した中ではあったが、横地大雅とは0秒01差の大接戦の2着13秒82と鮮烈な印象を与える走りを見せた。
勇躍挑んだ6月の日本選手権では110mH、400mH共に決勝進出が果たせず、トップ選手の高い壁に阻まれたが、急成長を見せ始めたのはこの後から。
多くの選手がオレゴン世界陸上代表へのラストチャンスに挑んだ布勢スプリントの110mHでは13秒32で優勝した高山峻野(ゼンリン)、日本選手権で世界陸上代表を決めていた村竹に続く13秒73で3着に入り、のちに世界陸上代表に選ばれた石川周平(富士通)や、今年の室内世界選手権60mHで準決勝進出を果たしていた野本周成(愛媛陸協)に先着、7月の国体東京代表選考会の400mHでは49秒82と50秒切りを果たして1着。
更に目を瞠るような走りを見せたのが8月のオールスターナイト陸上の110mHで、学生代表の一人として、高山、石川らに挑み、13秒10のワールドクラスのタイムで1着となった高山に続く13秒44で2着に食い込み、この種目の代表クラスの選手と互角に渡り合えるだけの実力が備わってきている事が改めて感じられた。
この間、7月末に行われた慶応義塾大学対同志社大学対校競技会ではメイン種目ではない400mに出場して45秒92をマーク。この種目での46秒切りは国内トップ選手の証であり、マイルリレー代表選手にも引けを取らないレベルと言って差し支えないだろう。

今月9日から始まる日本インカレで、豊田は対校戦ということもあり、この夏に記録を伸ばした110mH、400mH、400mの三種目すべてにエントリーをしている。110mHでは村竹、400mHでは黒川、400mでも世界陸上マイルリレーのアンカーとして4位入賞に貢献し、帰国後のオールスターナイト陸上で45秒72、富士北麓ワールドトライアルで45秒51と好記録を連発した中島佑気ジョセフ(東洋大)、世界陸上では混合マイル予選に出場、帰国後は富士北麓で45秒78をマークした岩崎立来(大阪体育大)と各種目の世界陸上代表選手がライバルとなるが、こうした選手達を相手に全国規模の大会でどこまで力が発揮できるのか、来年のブダペスト世界陸上や、その先のパリ五輪代表を目指していく上での試金石となりそうだ。
背が高く、高山のような日本人離れしたスケールの大きさがあり、世界に目を向けた際には記録の伸びが顕著な110mHでの可能性を感じるが、400mHでもスピード生かした果敢な先行策が、何度も「逃げバテ」を繰り返しながらも自分のスタイルを貫き、48秒台にまで突き抜けて五輪代表の座を掴んだ黒川の姿に重なる。400mで45秒台の走力が備わり、こちらのポテンシャルも相当高い。
そして400m、慶大・同大対校戦の再現ができるようであれば、マイルリレー代表候補の声も高まってくるのではないだろうか。
今後、田中のように複数種目で世界を見据えて行くのかは現時点では未知数で、いずれは最も可能性の高い種目一つに絞る事が現実的なのかもしれない。
ただ、今回の日本インカレでは、100mH、400mH、400mでスタートラインに立つであろう豊田に、異なる三種目で世界に挑む姿を重ねてみたい。大谷翔平やハッサンのようにとは言わないまでも、そうした想像を羽ばたかせてくれる夢のある選手が、私にとっては現在の豊田兼なのだ。
文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)
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