日本記録保持者で東京五輪代表の相澤晃(旭化成)とオレゴン世界陸上代表の伊藤達彦(Honda)のエントリーは無く、このレースでブダペスト世界陸上の参加標準記録、27分10秒00のの突破を目指すと思われた、伊藤と同じくオレゴン世界陸上代表の田澤廉(駒澤大)もスタートラインに姿がない。主役不在と思われた2022八王子ロングディスタンス男子10000m最終組で存在感を見せつけたのは、高校時代に溢れんばかりの光を放ち、その能力を謳われ将来を嘱望されながらも度重なる故障禍により輝きが失われかけていた羽生拓矢(トヨタ紡織)だった。

八千代松陰高校1年生だった2013年、14分00秒55と当時の学年別日本人選手の新記録をマークして世代トップの座に躍り出た羽生は翌2014年、ベルギーに遠征し自己記録を13分52秒98まで伸ばした。
その後は腰部の故障により2015年の高校ラストイヤーのインターハイは欠場を余儀なくされたが、全国高校駅伝では1区を担い、その年の11月に13分51秒85の好記録を叩き出して世代トップの座を奪還し、共に東海大への進学が決まっていた佐久長聖高校の關颯人(SGホールディングス)に区間賞を譲ったものの、故障明けにも関わらず156㎝の小柄ながら力強くストライドを伸ばし、ハイペースで集団を引っ張りレースを作ったその姿は鮮烈な印象を残し、同時に将来性の高さも伺わせた。
關と共に同じ1区を走り競い合った大牟田高校の鬼塚翔太(現メイクス陸上部)、洛南高校の阪口竜平(現On Athletics Club)、埼玉栄高校の館澤亨次(現DeNA)らも東海大に進学、羽生も「東海大黄金世代」の一人として更なる飛躍と箱根駅伝初制覇に導く事が期待されていたが、1年時に全日本大学駅伝の7区を走り区間14位と大学駅伝の壁に跳ね返されると、その後は故障もあり箱根を含む三大駅伝を走る事は無かった。
大学3年時の2019年に東海大学は悲願の箱根駅伝総合優勝を飾るが、鬼塚、阪口、舘澤ら高校時代からのライバルや、台頭してきた西川雄一郎(現住友電工)、小松陽平(現日立物流)ら同期の活躍を、羽生と同じように故障によりメンバーを外れた關と共に見守る他なかった。年度が替わった4月以降も競技会のスタートラインに立つことができず、羽生は東海大でのラストイヤーを終えた。
「羽生拓矢は終わった」
某巨大掲示板には口さがない大学駅伝好きのネット民からの書き込みがちらほらと見られるようになっていたが、目立った結果を残せなかったにも関わらず声を掛けたトヨタ紡織で競技を続行する道を、羽生は選んだ。
しっかりと故障を治し、もう一度身体と心を鍛え直すことを決意して練習に臨み、2020年秋には中京大記録会の5000mで13分40秒26と6年ぶりに自己記録を更新すると、中部実業団選手権でも10000mで28分20秒10と自身初の28分台をマークするなど結果が出始めた。
その年の12月に行われた東京五輪代表選考会を兼ねた日本選手権では5000mで自身初出場を飾り、13分35秒88の9位と入賞まであと一歩に迫る健闘を見せた羽生は、週刊文春でのインタビューに「環境が変われば、よくなる事もあると思っていた」と語っている。

2021年は大会出場こそ少なかったものの、9月に行われた全日本実業団選手権の5000mでは自己記録を更新する13分28秒82で日本人選手4番手に食い込んでいた。
そして今年、11月26日に行われた2022八王子ロングディスタンスでは、自己記録を50秒も上回るこの日最も速い27分30秒ペースに設定された男子10000m第7組に敢然と挑戦、5000mをほぼ設定どおりの13分49秒で通過すると一段ギアを上げ、日本人選手のペースメーカーを務めたJ・ディク(日立物流)を従える形で前に出て、先行するケニア人実業団選手を単独で追いながら、一人、また一人と交わしていく。
ややペースが停滞した7000m過ぎには、羽生に追い付き再び前を引き始めたディクの渾身のサポートを得て後半の5000mでペースを上げる会心のレース運びとなり、最後の直線では一度軽く右こぶしを突き上げた後、力強く両拳を握りしめ、どこか照れたような笑顔ではにかみながらゴールしたそのタイムは日本歴代4位となる27分27秒49。
かつての才能の原石が、度重なる故障にも屈することなく、その経験から心身ともに磨きを掛け直し、再び力強い輝きを放ち始めた瞬間だった。
学生時代にまるで周回遅れになりそうなほど引き離されていると思われた、箱根駅伝の花形スターで東洋大卒業後は名門、旭化成に進んだ同学年の相澤の持つ27分18秒75の日本記録との差は10秒余り、背中の見える位置にまで縮まってきた。
羽生本人もこの結果で大きな自信を得たことだろう。
しかしながら、この日の羽生の劇的な走りを誰よりも喜び、また大きな刺激を受けたのは、羽生同様に故障に悩まされ続けている東海大黄金世代の一人、關颯人ではないだろうか。
ふとそんなことを思った。
文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)
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