1月15日に行われたヒューストンマラソンで、女子10000m日本記録保持者で東京五輪代表、オレゴン世界陸上マラソン代表の新谷仁美(積水化学)が、35㎞までは2時間19分切りもあろうかという素晴らしいレース内容で、2005年に野口みずきがベルリンマラソンで記録した2時間19分12秒の日本記録まであと12秒に迫る高橋尚子、渋井陽子越えとなる日本歴代2位の2時間19分24秒で優勝を果たした。日本人女子選手の2時間20分切りはその野口の日本記録以来17年振りであり、日本女子マラソン界の前に立ちはだかっていた記録の壁を一つ乗り越える「偉業」といえる結果だったのだが、その結果以上に、「今年9月24日のベルリンマラソンで再び日本記録に挑戦する」とSNS上に今後のスケジュールを発信した事が大きな話題となった。ベルリンマラソンと、10月15日開催のパリ五輪代表選考会のMGCの両方にベストのコンデションで出場する事は困難である。現役最強ランナーの一人がパリ五輪の代表戦線から離脱する意思を表明したとなれば、報道関係者が色めき立つのも無理からぬ事だ。やはりと言うべきか、新谷は後日に行われた記者会見でパリ五輪について、「今の時点では私の気持ちの中にはありません」と明言した。
新谷の真意がどこにあるのか、その言葉どおりに受け取っても良いものなのか、その心の裡は想像するより手立てがないが、新谷が投げ掛けた言葉の礫が女子マラソンのパリ五輪代表を巡る争いに大きな局面の変化を齎すことになったと、現状でもはっきりと言い切って良いだろう。オレゴン世界陸上代表で、パリでもその座に就く可能性が高いと思われた有力選手の路線変更でその枠が一つ空き、より多くの選手に可能性が拡がったという物理的側面もあるが、それよりも新谷不在で争われる公算が高くなったMGCを含むパリ五輪代表争いで、むしろ不在であるが故にパリ五輪を目指す選手達がこれまで以上に野口みずきの日本記録や、そこから12秒しか遅れを取っていない新谷の2時間19分24秒という記録に向き合わざるを得なくなった事実の方が大きいと思われる。その理由は二点。
一つはMGCを含むパリ五輪のマラソン選考が、前回の東京五輪と同じ過程を踏んで行われた場合、MGCで即内定とならない3枠目の代表の座を巡り、MGCチャレンジの期間内において記録された最も良い記録がMGC後に行われるファイナルチャレンジのターゲットタイムとなり、このタイムをブレイクした選手が複数出た場合、最も良い記録の選手がMGC3位の選手に変わり代表に内定するのだが、このターゲットタイムが現在のところ先のヒューストンマラソンで新谷が記録した2時間19分24秒であること、もう一つはこちらの方がより重要と思うのだが、新谷が本人の意向通りベルリンマラソンに出場しMGCを欠場したとしても、その時点でパリ五輪マラソン代表の途が閉ざされる訳ではなく、MGCチャレンジ対象レースである昨年の東京マラソンで完走しているため、MGCファイナルチャレンジに挑む権利を有している点にある。
仮定ではあるがベルリンマラソンで新谷が日本記録を更新したと考えた場合、マラソン好きの多い国民世論が新谷の五輪代表待望論に傾く事は充分考えられ、新谷が翻意する可能性、或いは「心ならずも諸般の事情により」翻意を促され、最期の最期の局面で再び代表争いに参入する可能性も否定できない。
つまり、パリ五輪マラソン代表を目指す選手は、新谷がMGCをに出場するかしないかに関わらず、最終的に新谷の記録を上回るか、直接対決となる可能性もある事を常に念頭に置きながら、その時に備えて勝つ事が出来るだけの準備が必要となっているのである。
枕が長くなってしまったが、年明け早々にこうしたパリ五輪女子マラソンの代表を巡る状況の変化が生じた中、第42回大阪国際女子マラソンが1月29日、例年の発着点ヤンマースタジアム長居が改修工事の為ヤンマーフィールドに所を変えてスタートし、大阪市街地を駆け抜けて再び戻ってくる42.195㎞のコースで行われる。
コロナ禍で途絶えていた海外選手の招聘も3年振りに実現し、ここ2年採用された男子によるペースメーカーも用いられず、コロナ禍以前のように女子単独のレースとして実施される今大会には、MGCチャレンジのラストシーズンでも有り、既にMGCファイナリストとなっているパリ五輪代表の有力候補選手や、MGC出場権獲得へ残り少ないチャンスに賭ける選手ら、国内トップ選手が多数エントリーし、それぞれの目標に向けてスタートラインに立つ。

国内招待選手で最も速いベストタイム2時間21分36秒を持つのは、東京五輪10000m代表の安藤友香(ワコール)だ。東京五輪では当初マラソン代表を目指したが敵わずトラック10000mに活路を見出し、短い準備期間だったにも関わらず代表の座を獲得した。本番で上位入賞とはならなかったが、この期間にトラックスピードを磨き直した事の効果はその後のロードレースで覿面に表れ、昨年2月の実業団ハーフでは日本歴代7位となる1時間08分13秒をマークした。3月に行われた名古屋ウィメンズマラソンでは、2時間17分18秒で優勝を果たしたR・チェプンゲティチ(ケニア)が5㎞地点で飛び出した後、その背中を当時世界歴代8位だった2時間17分45秒をベストタイムに持つR・C・サルピーターと共に15㎞付近から追い始め、20㎞までの5㎞のスプリットはその前の5㎞より36秒も速い16分16秒に跳ね上がり、中間点の通過も1時間9分27秒のハイペースとなった。次の5㎞で15分台に突入したサルピーターからは流石に離されたが、16分14秒とペースを維持。30㎞手前から疲れが見え始め、最終的には2時間22分22秒と自己記録更新を果たせなかったが、結果を厭わず世界トップクラスのサルピーターに食らい付いていったその姿勢からは、パリ五輪までに対等に勝負する力を身に着けようとする強い意志と、競技への意識の変化が感じられた。

昨年9月にベルリンマラソンに挑戦し、2時間22分13秒の自己記録をマークした佐藤早也伽(積水化学)は、5000m15分08秒72、10000m31分30秒19とトラック種目でも国際大会代表レベルのスピードを有している。初マラソンは一山麻緒(当時ワコール、現資生堂)が2時間20分29秒の女子単独レースでの日本最高記録で優勝を飾り、東京五輪代表の座を獲得した2020年の名古屋ウィメンズマラソンだったが、そのスピードを生かして30㎞手前まで2時間20分ペースの先頭集団に食らい付き、2時間23分27秒の好結果を残した。その後2度のフルマラソンでは、中盤までは初マラソンと同じようなハイペースでレースを進めながらも後半を纏める事が出来ず、30㎞以降の体力面での課題を突き付けられたが、先述のベルリンマラソンでは同レースで競い合った日本勢の加世田梨花(ダイハツ)、鈴木亜由子(日本郵政グループ)がスタートの5㎞で自重気味のペースとなったのを後目に、16分33秒と突っ込んだ入りを見せ、中間点を過ぎてからじわじわと差を詰めてきた加世田、鈴木に追いつかれてからもしっかりと粘り、35㎞からは突き放されたものの40㎞以降では差を詰めて自己記録更新と、その課題も解消されつつ有る。

昨年の大会で2時間20分52秒の大会記録で優勝した松田瑞生(ダイハツ)と共に、日本記録更新ペースを刻む男子ペースメーカーに25㎞手前まで食らい付き、松田から遅れて単独走となってからもペースの落ち込みを最小限に抑えて2時間22分29秒をマークした上杉真穂(スターツ)は、佐藤とは対照的にトラックスピードには欠けるものの、マラソンとなればハーフマラソンの自己記録を上回るハイペースであろうと果敢に先頭集団で勝負に挑むハートの強さは共通している。
2018年2月の東京での初マラソン以降フルマラソンは今回で10度目を数える。そこには長期的視野に立ち、多くの実戦を通して鍛え上げる方針が伺われ、その方針に沿って地道に走力を付けてきた。
11月に挑戦したWMMのニューヨークシティマラソンでは序盤先頭で集団を引っ張る場面も有ったものの結果は2時間32分56秒と力を出し切れなかったが、その2週間前にはプリンセス駅伝で最長区間の10.7㎞を任されており、帰国後11月末のクイーンズ駅伝では1区7.6㎞、2週を置いて12月の山陽女子ロードでは10㎞の部に出場と走りまくっている事から、ニューヨークシティーマラソン挑戦もパリ五輪代表の大望を見据え、海外トップ選手の駆け引きの経験を積む場と割り切っての出場だったとも考えられる。そのブレる事のない競技姿勢と、これだけ走りながら大きな故障なくコンディションを保ち続ける心身の強靭さは、女子長距離界に有っても特筆される。
直近の全国女子駅伝では4km少々と距離の短い5区ながら区間賞獲得と、調子も上向いてきている。
この三人の他、招待選手で女子最強市民ランナーと称される山口遥(AC・KITA)、準招待選手の岩出怜亜(デンソー)の二人も既にMGCの出場権を獲得しているが、より五輪代表に近い位置にいるのは上記の三人で、今大会はそのMGCの前哨戦の様相を呈しており互いに負けられないという思いが強く働く事は想像に難くなく、更に五輪代表を目指すのであれば、本番で世界のトップ選手と対等に渡り合うために越えなければならない野口みずきの日本記録をどれだけ意識しながらここまで準備をしてきたのか、新谷仁美がその野口の記録に迫ったことでどれほどの刺激を受けたのかも露わになるレースだとも言えるだろう。
また、ケニアのM・キプケモイ、エチオピアのH・デッセ、M・シセイの2時間20分台の自己ベストを持つ三人の海外招待選手も、日本人有力選手の現在の力を推し量るにはうってつけであり、五輪代表を狙う選手は、これらの選手と記録を目指しながら競い合い、きっちりと勝ちきるだけの力が有る事を見せておきたいところだ。

その他の招待選手では、池田千春(日立)が昨年の名古屋ウィメンズで27秒届かなかったMGC獲得を目指してのレースとなる。2時間29分10秒以内でゴールすれば期間中二本の平均タイム2時間28分00秒以内の規定でのMGC出場権獲得も可能だが、日本人6位までに入って力のあるところを示したい。
加えて、10000mで31分36秒19、ハーフマラソンのベストも1時間09分14秒の自己記録を持つスピードランナーの筒井咲帆(ヤマダHD)、一昨年に800m、1500mにハーフマラソン、昨年は3000m、5000m、10000mと、ここ2年間で3000m障害を除く800mからハーフマラソンまでのフラット種目で自己新記録を更新している元気なベテラン、𠮷川侑美(ユニクロ)の満を持しての初マラソンも要注目で、筒井の駅伝などロードで見せる勝負強さや、昨年の名古屋ウィメンズでペースメーカーを務めた𠮷川の経験を勘案すれば、両者ともに一発でMGC出場を決めるだけの力は充分に備わっているものと見ている。
準招待選手では、招待選手の山口同様にクラブチームに所属して活動している市民ランナーの兼重志帆(GRlab)が2時間26分48秒以内でゴールすれば二本平均の規定でMGC出場権を獲得できる他、2015年北京世界陸上10000m代表の西原加純(シスメックス)の初マラソン、同じく北京世界陸上女子マラソン代表で、2019年の名古屋ウィメンズで東京五輪代表を争うMGCの出場権を獲得しながら本番は故障で出場を断念した前田彩里(ダイハツ)の、その名古屋ウィメンズ以来のマラソン復帰レースも楽しみだ。
今大会は発着点のヤンマーフィールドへの変更に伴いコースの1部も変更されて折り返しが少なくなり、その分記録への期待も高まっているが、今週は日本列島を寒波が襲い、レース当日の気温も例年より低めの予想となっているのは気になるところ。
寒風を突き抜け、新谷のヒューストンマラソンでのパフォーマンスを凌駕するインパクトでパリ五輪代表争いに新たな局面変化を齎す選手は現れるのか。
スタートは12時15分、14時34分までに結果が判明すれば、五輪代表争いの変化に留まらず、女子マラソン史が書き換わる事となる。
文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)
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