夢見ていた世界の舞台、オリンピックへと繋がる栄光のゴールまで残り250mに迫っていた。
2012年6月9日長居陸上競技場。ロンドンオリンピックの代表選考会として行われた男子10000mでその前年の11月に行われた八王子ロングディスタンスの10000mで当時の日本歴代6位となる27分41秒57を叩き出しオリンピック参加標準記録Aを突破した宮脇千博は、勝てば代表が確実となるその舞台で力走し、残り600m地点で先頭に躍り出た。残り1周の鐘が鳴ると更に一段ギアを上げ、追い縋る宇賀地強、佐藤悠基、大迫傑に3m、4mと差を拡げる。バックストレートの入り口で宇賀地が脱落、勝利は目前と思われたその矢先、宇賀地を躱して2番手に上がっていた佐藤悠基がスパート、コーナーに入る直前で躱されるも必死に食らい付く。コーナー中間点で大迫が宮脇を抜き佐藤に並び掛けると、抜かせまいと佐藤もまた更に加速する。最後の直線で大迫を振り切った佐藤が胸を二つ小さく叩いて右の握りこぶしを掲げるその姿を、2秒後方の宮脇もその眼に捉えていた。
岐阜県の中京高校3年時に全国高校駅伝1区を走り19位だった宮脇は、2010年4月、世界の舞台で戦う夢をより早く実現するために、大学で箱根駅伝を走る道を選ばず、実業団のトヨタ自動車の門を叩いた。コニカミノルタのコーチ時代に高卒選手の松宮隆行を5000m日本記録保持者に育て上げた手腕を持つ佐藤敏信監督の指導の下、めきめきと頭角を現し、入社2年目には5月のゴールデンゲームズinのべおかの5000mで13分35秒74で優勝を飾ると、翌月の日本選手権の10000mは6位入賞と瞬く間に国内トップクラスに急成長、そして11月の八王子ロングディスタンスの10000mにおいて27分41秒57をマークしてオリンピックA標準を突破し、弱冠二十歳にして一躍オリンピック代表候補に浮上した。
勇躍挑んだ日本選手権で宮脇は28分20秒76の3着に敗れた。1種目に付き1名のみ選手を派遣できるオリンピック参加標準記録Bの突破に留まっていた佐藤が優勝を果たしたことで、参加資格を有する日本選手権優勝者を優先してオリンピックに派遣する陸連の方針により、代表は佐藤1人となり、宮脇のロンドンオリンピックへの夢は潰えた。
2013年9月に2020年のオリンピック開催地が東京に決定すると、宮脇は東京オリンピックのマラソンでのメダル獲得を目標に、本格的なマラソン転向を決意する。まずは2016年のリオデジャネイロオリンピックの代表を目指し、2014年の東京マラソンに挑戦、当時高岡寿成の持っていた2時間6分16秒の日本記録を上回るハイペースの先頭集団でレースを進めていたが、20㎞を過ぎたころからステップレースとして臨んだ丸亀ハーフで違和感を感じたという座骨痛が再発、25㎞手前で先頭集団から遅れ始め、その後は時折患部を叩きながら粘りの走りを続け、40㎞以降は落ちていたペースを再び上げる執念をみせたが2時間11分50秒の15位と、ハーフマラソン1時間0分53秒の自己ベストを持つ宮脇の能力からすれば物足りない結果に終わった。
この頃から座骨痛と共に、長距離ランナーの宿命とも言える「脚抜け」の症状にも見舞われるようになり、2015年、2016年はフルマラソンを走れるまでには回復せず、リオデジャネイロオリンピックの選考レースには出場する事さえ敵わなかった。
2017年3月のびわ湖毎日マラソンで3年ぶりのフルマラソン出場に漕ぎつけた宮脇は、中間点を過ぎてから、ペースメーカーを置き去りにするほどのケニア勢のペースアップに必死に追い縋ったものの、25㎞以降は失速し2時間16分51秒に終わったが、東京オリンピック代表選考競技会としてMGCシリーズも同年の北海道マラソンで始まった中、続く10月にはシカゴマラソンで初の海外大会に挑戦し2時間13分23秒の11位に入り、ようやくコンディションも上向いてきた。
2018年の東京マラソンでは、一度はMGC出場権の得られる6位を争う集団から零れ落ちたが終盤に巻き返し、2時間8分45秒で日本人選手4位に入ってロンドンオリンピック10000m代表を争った佐藤悠基にも先着を果たしてMGC出場権を獲得、東京オリンピック代表への道を切り開いた。
そして迎えた2019年9月のMGC。序盤からハイペースで突っ込み、独走状態となった設楽悠太を追う2番手集団の前方を、一時は引っ張る果敢な姿勢を見せた宮脇だったが、古傷の座骨痛から来る股関節、足首の痛みを発症し、ファイナルチャレンジに全てを賭けるため、中間点過ぎにレースを止める事を選択した。
東京オリンピック代表へのファイナルチャレンジとなった2020年の東京マラソン、社会はコロナ禍に覆われ、厳重な警戒の中異様な雰囲気で行われたレースで宮脇は2時間09分04秒の25位に留まり、目標だった自国開催のオリンピックマラソンでのメダリストへの道は閉ざされた。
2021年に延期された東京オリンピックイヤーを、マラソンを走ることなく終えた宮脇は、2022年3月にパリ五輪代表選考会となる2度目のMGC出場権獲得を目指し東京マラソンに出場するも、2時間12分41秒の40位、12月の福岡国際マラソンでも2時間18分21秒で24位と不本意な結果に終わっている。
福岡国際の前に宮脇は、「MGCを取れなければ、世界で戦うことが求められるトヨタ自動車チームには残るべきではない」と語っていた。
そして今、東京マラソン2023を前に、「3月5日の東京マラソンでMGC出場権が獲得出来なければ本大会をもってトヨタ自動車陸上長距離部を退部することになりました」と本人のSNSで明かし、「東京マラソンを引退レースとして準備してきた訳ではありませんし、MGCファイナルで戦う為に練習してきた」「辞める為に東京マラソンを走るつもりはありません」と続けている。
こうした言葉からは、宮脇が2010年のトヨタ自動車に入社した時に抱いた「世界の舞台で戦う」という夢を今も持ち続けている事が理解できる。慢性的な故障に見舞われながらも、競技を続けて来た理由もそこにあるのだろう。そして、世界の舞台まで残り200m余りに迫りながらも躱された末に付けられた、2012年6月9日、日本選手権10000mでの佐藤悠基との2秒61の差を追い続けているのかもしれない。
宮脇は3月5日、東京マラソン2023のスタートラインに立つ。
見果てぬ夢、オリンピック代表へと続くストーリーをここで終わらせないために。
文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)
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