設楽悠太が2018年の東京マラソンで2時間6分11秒でゴールして高岡寿成の2時間6分16秒の日本記録を更新し、16年間止まっていた時計の針を進めてから、今年で5年目を迎える。
設楽が東京五輪代表選考に関わるMGCシリーズの期間中に出したこの日本記録を境にすると、2時間6分台を記録した選手は、4分台、5分台も含めてそれ以前の3人から現在は15人、2時間7分台を記録した選手は14人から55人と飛躍的に増加しており、設楽の日本記録更新が、その後の日本男子長距離界に齎した効果は非常に大きかった。
現在も男子長距離界は、決して停滞している訳ではなく、2月26日に行われた大阪マラソンでは西山和弥が初マラソン日本最高記録となる2時間6分45秒をマークするなど、競技水準の底上げは着実になされている。
しかしながら、大迫傑が2018年10月にシカゴで2時間5分50秒をマークして日本人選手として初めて6分の壁を破り、2020年の東京ではその記録を2時間5分29秒に押し上げ、更に鈴木健吾が2021年のびわ湖で2時間4分56秒を叩き出して日本記録は世界水準の4分台に突入したが、設楽の記録を上回っているのはこの二人のみで、世界へのステップボードと言える2時間6分台を2度以上記録している選手も、大迫、鈴木に加え井上大仁を加えた3人に留まり、折角ひとつ好記録を出してファンデーションを築きながら2度、3度と立て続けに好走する選手や更に上の記録を出す選手がなかなか現れていないという現状もある。
聞谷賢人は昨年3月の東京から9月のベルリン、今年の別大と2時間7分台を3度マーク、其田健也は昨年東京、ベルリンと2時間7分30秒を2度切るなど、7分台であれば立て続けの好走を見せる選手も出てきたが、昨年12月の福岡国際で優勝したイスラエルのテフェリ、今年2月の別大で優勝したジブチのハッサンが2時間6分台で優勝しているように、ケニア、エチオピア勢以外にもこのレベルで走る選手が現れている以上、もう一段上回るインパクトが欲しいのも確かだ。
設楽悠太は2019年9月に行われた東京五輪代表選考会となったMGCで、スタート時の気温が24.8℃のフルマラソンとしては厳しいコンディションの中、1㎞3分ペースを中間点まで単独で刻み続けた。
無謀とも言われたこの大逃げの裏には、設楽自身、集団で走る事が苦手であり、フラストレーションを抱えることなくマイペースで走る事が勝利への近道と踏み、採用した戦術でもあったのだろうが、東京五輪の選考会であるMGCのこの時既に、ほぼ同じコースを走る東京五輪本番を想定し、ペースメーカーがいないレースでのケニア、エチオピア勢の細かなペース変化、駆け引きの影響を受けずに自身の力を出し切る為の一つの方法論と考え、それを実践しておきたかった側面もあったように思う。
あの時の設楽の走りからは、一度は日本記録を更新し、日本長距離界のトップに立ったアスリートとして、このレースに勝つかどうかではなく、この戦術でレースに勝つことが出来なければ、海外勢に太刀打ちすることは到底望めず、地元開催の五輪本番のスタートラインに立つ資格がない、と思い詰めたような気迫が感じられた。
無論、MGCに出場した選手は誰もが五輪出場権獲得を最優先事項とし、大迫までもがその中での勝負に徹していた訳であり、ここを逃せば東京五輪ファイナルチャレンジには更に高いハードルが課せられていたので、この場で五輪出場を確定させる、それ以外に最適解はない。
にも関わらず、あの時神宮外苑に設けられた特設ゴールではなく、本番の国立競技場でのゴールを見据えて走る事ができる、また五輪代表が懸ったレースで勝とうが負けようが自身の信念を貫き通し、ゴール後も全く後悔はないと言い切れる、ただ一人の選手が「マラソンの常識が通用しない」異端のアスリート、設楽悠太だったのだと、あれから4年目を迎える今となってもそう思う。
MGCからパリ五輪本番までの間に実戦として走る事のレースは限られ、そのように時間が限られた中で男子長距離界が更にレベルアップをしていくためには、前回のMGCの後、代表を内定させた服部勇馬がレースを振り返って「設楽さんとの距離が思ったほど詰まってこないので、まずこの中(設楽を追い掛けていた集団のこと)で一番になる事を考えなきゃいけないな、と思った」と語っていたように、ここぞのレースでは必ず主導権を奪いにくる設楽の力がまだまだ必要だ。特にMGCのように代表選考の掛かるレースで、設楽のような、「マラソンの常識が通じない」選手がいるといないとでは、レースを共にする選手にとって展開の難易度も変われば、それに対する心構えも違ってくるだろう。
その設楽悠太が、昨年の大阪マラソンで2時間13分19秒の31位に終わって以降、4月の岐阜清流ハーフ、函館ハーフと2度のハーフマラソンに出場してはいるものの、長距離界の最前線に姿を現した訳ではなく、すっかりと鳴りを潜めてしまっている状況は、設楽を追い掛けてきた若い選手達が好結果を残している中にあって、ファンとして少し寂しくも、物足りなくもあった。
設楽にとって1年振りとなる3月5日の東京マラソンが、かつての走りを取り戻す舞台となる事を、大勢の長距離ファンが望んでいる。
文/芝 笑翔 (Emito SHIBA)
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