7月6日午後18時30分を少し過ぎた、東京国立競技場。
東京世界陸上の代表選考会として行われた第109回日本陸上競技選手権大会の最後の種目となった女子100mH決勝、混戦から抜け出た田中佑美(富士通)に、スピードの落ち込みを最小限に抑えて追い込んできた中島ひとみ(長谷川体育施設)が並びかけ、ほぼ同時にフィニッシュ。
スタンドに詰めかけた大勢の陸上ファンが固唾を飲んで大激戦の結末を見守る中、スクリーンにはなかなか速報が表示されず、決勝を共に闘った8人の選手もトラックに腰を降ろし、車座になってリザルトを待った。
1着、12秒86(852)田中佑美、2着、12秒86(855)中島ひとみ。
公式リザルトが表示されると田中と中島は立ち上がり、肩を抱き合って互いの健闘を称え、その二人を囲むように3着となった福部真子(日本建設工業)、今季限りで第一線から退く事を表明している寺田明日香(ジャパンクリエイト)ら、選手たちの拍手の輪が加わった。
優勝の田中がインタビューに呼ばれて選手たちの輪は解け、一人、また一人とトラックを後にして行ったが、激戦の余韻を惜しむようにトラックの脇に腰を降ろしていたその選手は、3着の福部に肩を叩かれ、2着の中島から声を掛けられると肩を震わせ、両手で顔を覆った。
宮崎商業3年時、2009年の高校総体の100mHを、寺田明日香の13秒39に次ぐの13秒44の好タイムで制し、進学した筑波大では2度の疲労骨折に苦しんだ時期もあったが、2013年の第97回大会で初めて日本選手権に出場すると決勝に進み5位に入賞、以降はコロナ禍で活動制限を余儀なくされたなか、ウェートトレーニング中に骨折をして欠場となった2020年を除き、計11度日本選手権に出場し、すべて決勝に進出、しかも骨折の癒えた2021年、東京オリンピック選考会となった第105回大会では自己最高順位の2位、2023年のゴールデングランプリでは国内女子選手では5人目の12秒台となる12秒96を記録するなどキャリアを重ねるにつれ自己記録を伸ばしてきていたが、東京オリンピック以降、オレゴン、ブダペストの世界陸上や、再び巡ってきたパリでのオリンピック代表にはどうしても届かず、東京で自国開催となる世界陸上が行われる今シーズンを陸上人生の集大成として、これが最後の覚悟を持って12度目の日本選手権に挑んでいた清山ちさと(いちご)だった。
好スタートを切り、中盤までは優勝争いに加わりながら13秒10の7着に敗れ、抑え切れなくなった様々な感情を涙と共に流した清山の、東京世界陸上代表を目指す最後の闘いはこの日から始まった。
日本選手権の終了時点で、東京世界陸上出場資格に関わるWAのRoad to Tokyo 25での清山のランキングは、日本人選手3番手で世界陸上出場圏内を示すターゲットナンバー40位の1222pまであと3ptの1219ptとなっていたが、パリオリンピック出場後の昨秋、難病の菊地病にり患して、今シーズン出遅れていた福部が日本選手権の準決勝で参加標準記録の12秒73まであと0秒02に迫る12秒75を叩き出し、コンデイションが更に上向けば標準記録の突破も時間の問題と思われ、また代表選考で重要な位置を占める日本選手権で上位に食い込むことが出来なかった清山が代表となるには、資格記録の締め切りを迎える8月24日までに、代表選考の優先度が高い標準記録を突破することが必要となっていた。

清山は、日本選手権以降しばらくの期間出場に適した大会の行われない国内に留まることなく、標準記録突破を目指してヨーロッパで行われるWAコンチネンタルツアーの競技会に身を投じ、日本選手権から僅か6日後の7月12日、ベルギーでのコンチネンタルツアーブロンズの大会に出場し、13秒02で3着、7月27日にはドイツで行われたコンチネンタルツアーシルバーの競技会で13秒04で6着、8月9日には再びベルギーでコンチネンタルツアーブロンズの競技会に出場し13秒07で4着の結果を残したが、標準記録の突破には至らず、その間、清山同様に海外の大会に機会を求めていた、昨年9月の全日本実業団選手権で日本人女子選手として7人目の12秒台となる12秒99を記録し、今季は破竹の勢いで自己記録を12秒81にまで伸ばし、日本選手権でも2位となっていた代表を争うライバルの中島ひとみが、7月23日にフィンランドで行われたコンチネンタルツアーブロンズの競技会で12秒71を叩き出し、世界陸上参加標準記録突破を果たしていた。
ヨーロッパ遠征後の帰国初戦となった8月16日のAthlete Night Games in FUKUI 2025の予選に登場した清山の左手には、まるでグローブを外したボクサーのように白いバンテージが幾重にも巻かれているように見えたが、追い風参考ながら12秒80の好タイムで決勝進出を果たす。
そして迎えた決勝、清山は12秒84の自己ベストでフィニッシュをしたが、その視線の先には12秒73で標準記録を突破した福部の背中があった。
真っ先に福部に駆け寄って抱き着き、祝福をした清山だったが、先を越された悔しさ、自身が標準記録に届かなかった悔しさは相当にあったと思われる。
それでも、福部の標準突破を自分のことのように喜び、称える事ができるのは、こうしたライバル達との切磋琢磨の中で国内の競技水準も自身の記録の水準も上がり、その状況の中に身を置いていることの喜びも標準記録の突破と共に、長く競技を続けてきた清山のモチベーションとなっているからだろう。

8月24日まであと1週間を切ったなか、中島に続き福部が東京世界陸上への出場資格を手にしたことで、いよいよ追い込まれた清山は、8月20日、横浜市の日産スタジアムで行われたトワイライトゲームズに出場、福井に続く自己ベスト更新で、日本歴代3位となる12秒77で1着となったが、標準記録には0秒04届かなかった。
レース後、清山はヨーロッパ遠征中の7月15日、出場を予定していた大会でアップ中に転倒し、左手を3箇所骨折していた事を明かした。
調べると、スイス・ルツェルンでのコンチネンタルツアーシルバー競技会のエントリーリストに清山の名は有ったが、リザルトにはDNSと記されていた。
現地の病院では手術を勧められたそうだが、それでは今後の大会への出場ができなくなる可能性が高い。
ANG福井やこの日、バンテージのように見えていたのは、大会出場を続けるために患部を固定するに留めたギブスであり、清山はまだ骨もくっつかない段階でこのひと月、痛みに耐えながらレースを続けてきたことになる。
左手をしっかりと接地することができずバランスが崩れ、100%の出力でスタートを切る事が出来ていなかったであろう事は想像に難くなく、或いは左手に力を入れる事を無意識のうちに避けているようなこともあったかもしれない。
しかしながら日本に戻ってからの清山は、骨折による身体のパワーバランスの変化を手の内に入れたのか、或いは長年の競技生活の中で培ってきた対応力で修正をしたのか、ベストコンディションとは到底言えないなかでも自己記録を連続で更新し、参加標準記録にあと0秒04の鬼気迫る走りを見せていたのだ。
「人生が懸かってるんで、骨が折れていてもやるという思いでやっている」と心境を吐露した清山は、「次が本当のラストチャンスになる」と24日の九州選手権への出場を表明した。
東京世界陸上の資格記録の期限となっていた24日、九州選手権女子100mH決勝。
1着でフィニッシュラインを通過すると同時にタイマーに視線を送った清山は、天を仰ぎ、ギブスをしていない右の手のひらで一度、トラックを叩いた。
12秒80。
立ち上がり、スタンドに向けて深々と頭を下げ、トラックを後にした清山の表情ははっきりとは伺えなかったが、目頭を押さえたその仕草から、涙を堪えようとしている様子が感じられた。
清山ちさとのアスリート人生を懸けた、東京世界陸上代表への挑戦は終わった。
日本選手権での涙からちょうど50日、代表には届かなかったが、骨折を押して最後の最後まで諦めることなく駆け抜けた清山の姿は多くの陸上ファンの心に刻まれたことだろう。
清山は今季に入り、幾度か「これが最後のつもりで」、あるいは「集大成として」と語っていることから、寺田同様今シーズンでの引退も囁かれているが、本人は明言をしていない。
所属先のいちごのHPでのインタビューでは、今後の目標として「記録への挑戦」を一番に挙げ、秋シーズンもまだ試合は残ってるので、しっかり狙って1試合1試合積み重ねて行ければと語っている。

出場が予想される全日本実業団選手権や、国民スポーツ大会で日本記録更新に挑む清山ちさとを、しっかりと両瞼の裏に焼き付けたいと思う。
文/芝 笑翔
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※参考
日本選手権以降の清山ちさとの全リザルト
7/12
Moore-Guldensporenmeeting(BEL)
予選1組(+2.4)2着 12.98
決勝(+1.7)3着 13.02
7/15
Spitzen Leichtathletik Luzern(SUI)
予選B組 DNS
7/27
ISTAF 2025(BEL)
決勝(+0.3)6着 13.04
8/9
IFAM Oordegem(BEL)
予選2組(+0.3)3着 12.99
決勝(-0.6)4着 13.07
8/16
Athlete Night Games in FUKUI
予選3組(+2.2)1着 12.81
決勝(+1.4)2着 12.84※自己新記録
8/20
第20回トワイライトゲームス
タイムレース決勝2組(-0.1)1着 12.77※自己新記録、日本歴代3位
8/24
第80回九州陸上競技選手権大会
予選1組(-0.4)1着 12.93
決勝(+0.1)1着 12.80
女子100mH日本歴代10傑
1)福部真子(日本建設工業) 12.69+1.1 2024/07/20 オールスターナイト陸上
2)中島ひとみ(長谷川体育施設)12.71+0.7 2025/07/23 フィンランド・モトネットGPタンペレ
3)清山ちさと(いちご)12.77-0.1 2025/08/20 トワイライトゲームス
4)田中佑美(富士通)12.80-0.2 2025/07/05 日本選手権予選
5)青木益未(七十七銀行)12.86-0.2 2022/04/10 北陸実業団選手権
5)寺田明日香(ジャパンクリエイト)12.86+0.7 2023/05/07 木南記念
7)本田 怜(順天堂大)12.91+1.4 2025/08/16 ANG福井
8)大松由季(サンドリヨン)12.94 0.0 2024/10/05 中部実業団選手権
9)島野真生(日本女子体育大)12.97+1.4 2025/08/16 ANG福井
10)金沢イボンヌ(佐田建設)13.00+0.7 2000/07/16 南部記念
10)鈴木美帆(長谷川体育施設)13.00+1.5 2021/06/06 布勢スプリント
10)紫村仁美(リタジャパン)13.00+1.9 2024/06/02 布勢スプリント