鮮やかなピンク色のユニホームを纏ったまだ16歳の高校2年生が、今季、日本の女子800mに旋風を巻き起こしている。東大阪大敬愛高校の久保凛だ。
久保は本州最南端の町、和歌山県串本町の潮岬中学3年生だった2022年、全国中学校選手権の800mを2分9秒96で制し、東大阪大敬愛高校に進んだ昨年の全国高校総体では前年の国体少年Aの覇者、西田有里(当時草津東高、現立命館大)を抑えて優勝を果たすなど、既に将来を嘱望される有望選手と目されていたが、今季に入ると、本格的なトラックシーズン開幕直後だった4月の金栗記念では、実業団や学生の日本トップクラスの選手たちが集結する日本グランプリシリーズ初参戦ながら、まだ調整途上だったとは言え、2分5秒59で田中希実(New Balance)に土を付ける大金星を挙げた。

日本グランプリシリーズ初制覇となったこのレースを皮切りに、以降も静岡国際、木南記念と連勝、なかでも静岡国際では2分3秒57で2006年7月に久保瑠里子(広島井口高)が記録した2分4秒44のU18日本記録を更新、6月の高校総体近畿予選の決勝では更にその記録を2分3秒50に更新とまさに走る度に強くなり、一気にその素質を開花させると、迎えた6月末の日本選手権では、田中に加え、この種目の日本選手権で優勝経験のある池崎愛里(ダイソー)、塩見綾乃(岩谷産業)、川田朱夏(ニコニコのり)、卜部蘭(積水化学)ら錚々たる実力者たちを、最後の直線で突き放す一方の圧倒的なパフォーマンスを見せて2分3秒13で制し、ついに日本チャンピオンにまで上り詰めた。
レース後のインタビューではパリオリンピック参加標準記録の1分59秒30を切ることを目標としていたので、そこに届かなかったのは残念だったが、優勝ができて率直に嬉しいと語っていたが、ここに至るまでの取り組みの中で、その目標に向けての準備をしっかりと整えてきたことを裏付ける機会が、日本選手権後最初のレースで早くも訪れる。

7月15日、奈良市鴻池運動公園陸上競技場。
けして注目度が高かった訳ではなかった関西学連長距離強化記録会の800mに出場した久保は最初の400mをあわや58秒台に迫ろうかとういう、59秒台前半で猛然と突っ込んだ入りを見せる。
久保はレース序盤から積極的に主導権を取りに行くタイプではあるものの、そのうえで2周目の強さ、特に残り50m辺りからの最後の一伸びに持ち味が有り、最初に2分3秒台を記録した静岡国際や、自己記録を更新した日本選手権でも最初の1周の通過は60秒台で、ここまでの速いタイムでの400m通過は未経験だったが、2周目に入ってもその攻めの姿勢を崩すことはなく、場内アナウンスの刻むタイムのカウントが告げる「2分!」の声とほぼ同時にフィニッシュ。
正式発表は1分59秒93、日本の女子選手では初めて2分の壁を突破、女子中距離界にとって大きな一歩となる歴史的な快挙を、久保は成し遂げた。
ペースメーカーやウェービングライトに頼ることもなく、自身の力のみでハイペースを刻みながら最後まで大きくタイムを落とさず押し切った点も、この記録を一段と価値あるものにし、それだけ周囲に与えたインパクトも大きかった。
旋風は吹き止むことなく、新たな時代を切り拓く風となった。
2003年、杉森美保(当時京セラ)が室内競技会ながら2分00秒78をマーク、翌2004年の日本選手権では2分00秒46で優勝を果たして屋外のトラックレースでの日本の女子800mの記録も2分0秒台に突入、2005年には杉森自身が2分00秒45に日本記録を更新して以降、0秒台を記録したのは2017年の日本インカレで2分00秒92をマークした北村夢(当時日本体育大、現エディオン)一人だけ、20年に渡りストップしていた時計の針を高校生の久保が進めて見せたが、他の種目を見れば、男子110mHでは2018年に金井大旺(当時福井県スポーツ協会)が2004年のアテネオリンピックで谷川聡(当時ミズノ)がマークした13秒39の日本記録を13秒36に更新すると、翌2019年には高山駿野(ゼンリン)と泉谷駿介(当時順天堂大、現住友電工)がそれに並び、今や、泉谷と村竹ラシッド(JAL)により13秒04まで押し上げられ、女子100mHでも2019年、寺田明日香(当時パソナ、現ジャパンクリエイト)が2000年に金沢イボンヌ(佐田建設)がマークした13秒00を19年ぶりに12秒97に更新して日本記録を12秒台に突入させると、2021年に寺田自身が12秒87と12秒8台、翌2022年には福部真子(日本建設工業)が12秒77、今年の7月には12秒69を叩き出して12秒6台となり、また、男子400mでも昨年のブダペスト世界陸上で佐藤拳太郎(富士通)が、高野進(東海大AC)により1991年に記録された44秒78の日本記録を32年ぶりに更新して44秒77とすると、更新こそならなかったものの、佐藤風雅(ミズノ)が44秒88で続くなど、長く破られなかった日本記録が更新されると、堰を切ったように好記録が続出する傾向も見られ、久保の記録がきっかけとなって女子の800mにもこうした流れが押し寄せてくる可能性は大いにあるだろう。

実際、久保の日本記録更新から僅か5日後の7月20日、ホクレンDCシリーズ最終戦、千歳大会の女子800mでは、自身が京都文教高校時代に2017年の全国高校総体でマークした2分2秒57の日本高校記録を久保に破られた塩見が、入りの400mを58秒台で通過する明らかに記録を意識した凄まじい突っ込みを見せ、フィニッシュ直前で脚が止まってしまったものの、その高校記録を作った時以来、7年ぶりに自己記録を更新する2分01秒93で優勝し、高校生の久保に遅れを取るまいとする意地と覚悟を見せつけた。
この塩見の自己記録更新にSNSで反応を見せたのが、塩見と同学年で長年に渡るライバル関係にある川田で、塩見の記録を称えると共に、自身も東大阪大学在学中だった2018年に記録した2分2秒71の自己記録を早期に更新できるよう頑張ると宣言しており、久保の活躍による波及効果も表れ始めている。

その後の久保は、7月末に北九州市で行われた全国高校総体を2分00秒81の好タイムで制し二連覇を果たした後、8月13日には大阪高校総合高校体育大会にも出場して2分2秒90で圧勝。勇躍代表選手として挑んだ初の海外国際大会、2024リマU20世界選手権では、準決勝を2分3秒00のトップタイムで通過を果たしながら、決勝では2分3秒31とタイムを落として6位と、自身より年齢がやや上になる世界の有望選手達を相手に苦渋を味わう結果となった。
最初の1周のペースは60秒を切るくらいで、これまでも経験しているペースだったが、勝負が意識に有ったためか、国内大会のように積極的にレースを引っ張る姿勢を見せることが出来ず、体格で上回る選手たちに包まれたこと、また転倒のリスクを避けるために勝負所に来る前に集団の外目、外目を走らざるを得ずその分「脚を削られた」格好となり、持ち味のラストスプリントでも切れ味を発揮するまでには至らなかったが、国内のトップクラスの選手たちとのレースとはまた違った、勝負の重みが濃厚に漂う国際大会のレースを経験出来たのは、そこで国内大会から続く連勝が止まってしまったことも含め、世界の舞台で活躍する選手となるための大きな糧となるだろう。

来年に開催される東京世界陸上の標準記録は発表されたばかり、また資格記録の期間は今年の8月1日からとなっており、これからシーズンオフまでの残された僅かな機会で、国際大会で経験を積んだ久保が更に記録を伸ばして1分59秒00の標準記録を突破することが出来るのか、また、久保に刺激を受けた塩見、川田や池崎、卜部の実業団の実力者、加えて2分3秒75の自己記録を持つ学生の渡辺愛(園田学園女子大)らが奮起を見せて、更に記録を動かしていく事が出来るのか、女子800mに訪れた新たな時代の景色が、この秋にどのような変化を見せていくのか、ますます楽しみだ。
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